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更新日:2019年11月7日更新
鈴木梅太郎
ビタミンB1を発見した、牧之原市出身の「鈴木梅太郎」についてご紹介します。
明治7年4月7日、堀野新田村(現在の牧之原市堀野新田)鈴木庄蔵の次男として生まれたました。幼少より学問を好み、15歳のときに単身上京。刻苦勉励して、明治29年には帝国大学農学科を主席で卒業しました。
その後、同大学助教授となってドイツへ留学。ベルリン大学エミールフイッシャー教授の下でタンパク質やアミノ酸の分析について学びました。
明治43年、ビタミンB1の抽出に成功し、「オリザニン」と名付け、当時流行した「脚気」の治療に大きな貢献をしました。
また人口合成酒を工業化し、大正11年に学士院賞を受領しています。
昭和18年には、文化勲章を受章し、さらに昭和天皇より正三位勲一等を拝受しています。
このように、鈴木梅太郎博士は郷土の生んだ世界的な科学者であり、青少年の夢を育む偉大な存在となっている人です。
年 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1874年(明治7年) | - | 4月7日榛原郡堀野新田村、鈴木庄蔵・次男として生まれる。 |
1879年(明治12年) | 5歳 | 鈴木利七先生に学問を習う。 |
1880年(明治13年) | 6歳 | 地頭方学校に入学。 |
1886年(明治19年) | 12歳 | 地頭方学校を卒業。 |
1887年(明治20年) | 13歳 | 県公認東遠義塾開講。同塾に入塾。 |
1888年(明治21年) | 14歳 | 5月15日、単身徒歩にて東京に向かって出発する。 東京都神田の日本英学館に入る。のち農林学校予備校に入学。 |
1889年(明治22年) | 15歳 | 東京農林学校入学。 |
1890年(明治23年) | 16歳 | 東京農林学校は農科大学と改称され、農商務省より文部省に移管。 |
1893年(明治26年) | 19歳 | 農科大学予科を卒業。 農科大学入学生総代とし誓約書を朗読。 |
1894年(明治27年) | 20歳 | 遠江学生奨学会より、同学1年級優等として賞品を授与。 |
1896年(明治29年) | 22歳 | 農科大学農芸化学科を卒業し、卒業式において東京帝国大学各文科大学全卒業生を代表して答辞を朗読。大学院に入る。 |
1897年(明治30年) | 23歳 | 桑の萎縮病の対策費として政府は数千円を支出し、博士は、その研究に着手。 |
1900年(明治33年) | 26歳 | 農科大学助教授に任ぜられる。 |
1901年(明治34年) | 27歳 | 農学博士の学位を授与される。 辰野須磨子嬢と結婚。 文部省留学生を命ぜられ、欧州に向け出発。 |
1906年(明治39年) | 32歳 | 帰朝。盛岡高等農林学校教授に任ぜられる。 盛岡にて鶏の白米病の実験を行う。 東京帝国大学助教授に任ぜられる(兼任)。 |
1907年(明治40年) | 33歳 | 東京帝国大学教授に任ぜられ、盛岡高等農林学校教授を兼任。米糖らフィチンを分離した。 |
1909年(明治42年) | 35歳 | 東京渋谷区宇田川町に転居。 東京肥料分析講習所長を兼務。 |
1910年(明治43年) | 36歳 | 12月13日、東京化学会例会席上、米糖の有効成分が燐タングステン酸と結合して沈殿せしめ分離できること、およびそれが新栄養素であることを発表。 |
1911年(明治44年) | 37歳 | 東京化学会誌に米糠の有効成分の分離についての報告が掲載される。 12月C.Funkビタミンの報告を提出。 |
1912年(明治45年) | 38歳 | 蛋白化学の研究に対し、東京化学会より桜井賞が授与される。 三共会社からオリザニン液が発売される。 |
1913年(大正2年) | 39歳 | 東京肥料分析講習所は改組、東京農業大学肥料分析講習部となり、同部長兼務。 |
1915年(大正4年) | 41歳 | サルバルサン、サルチル酸の工業的製造に成功する。 |
1917年(大正6年) | 43歳 | (財)理化学研究所主任研究員を嘱託する。 米を用いざる合成酒の研究を開始。 盛岡高等農林学校教授の兼務を辞する。 |
1919年(大正8年) | 45歳 | 香川県藍同業組合の招聘に応じ、小松嶋町に藍工場を建設した。 |
1923年(大正12年) | 49歳 | 私立東京農業大学農芸化学講習部は農芸化学部と改称し、2年制となる。この頃まで、この部に関係する。 |
1924年(大正13年) | 50歳 | 副栄養素の研究に対し帝国学士院賞を授与。 北海道工業試験場(在琴似)開設に参加。 日本農芸化学会を創立し、初代会長となる。 |
1925年(大正14年) | 51歳 | 勅旨をもって帝国学士院会員に列する。 私立東京農業大学建設資金として金1万円を寄贈し、金杯一個を贈呈される。 |
1926年(大正15年) | 52歳 | 帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞及び大賞を授けられる。 |
1927年(昭和2年) | 53歳 | 自宅において夫婦銀婚式。 郷里の地頭方小学校に奨学資金1万円を寄付。 「ビタミン」について御進講。 東京帝国大学農学部長に補せられる。 |
1928年(昭和3年) | 54歳 | 帝国発明協会より合成酒の発明に対し、特等賞牌を贈られる。 東京帝国大学農学部長を辞する。 |
1929年(昭和4年) | 55歳 | 大日本農会より名誉賞を贈られる。 東京帝国大学農学部へ実験室一棟寄付の件に対して紺綬褒章を下賜せられる。 |
1930年(昭和5年) | 56歳 | 発明家の一人として宮中賜餐の栄に浴する。 |
1931年(昭和6年) | 57歳 | 御講書始の儀において「エミール・フィッシャーの業績と生化学の発達について」御進講。 |
1932年(昭和7年) | 58歳 | ドイツ学士院会員に推される。 |
1933年(昭和8年) | 59歳 | 東京帝国大学へ奨学資金10万円寄付の件により、紺綬褒章飾板を下賜せられる。 |
1934年(昭和9年) | 60歳 | 願いにより東京帝国大学教授を辞する。 |
1937年(昭和12年) | 63歳 | 仏国のパリにて開催された万国博覧会にビタミンB1の結晶を出品し名誉賞を授けられる。 |
1938年(昭和13年) | 64歳 | 理研酒工業(株)を創設する。 |
1941年(昭和16年) | 67歳 | 理研酒の造石高40余万石に達する。 |
1943年(昭和18年) | 69歳 | 4月29日 文化勲章受賞。 9月20日 東京慶応病院において腸閉塞症のため逝去。 |