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更新日:2021年6月11日更新
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田沼意尊侯と天狗党の乱

   田沼意尊筆「雨乞曼荼羅」(浄心寺所蔵・市史料館寄託) 
田沼意尊筆「雨乞曼荼羅図」(浄心寺所蔵)

解説

令和3年6月13日(日曜日)、午後8時からNHK大河ドラマ「青天を衝け」の第18話「一橋の懐」で、田沼意尊(たぬま・おきたか)侯が登場します。

田沼意尊侯は、田沼意次侯のひ孫に当たり、最後の相良藩主として明治維新を迎えた人物です。日本全国はもちろん、領地であった牧之原市でも、この名前を知っている人はほとんどいないでしょう。しかし、幕末の歴史に詳しい人にとっては、ある意味では、意次侯以上に有名な人物かもしれません。それは、天狗党の乱鎮圧の総大将をつとめたからです。

田沼意尊侯は文政2年(1819年)、田沼意留の跡継ぎとして生まれました。天保11年(1840年)に相良藩主となり、文久元年(1861年)には若年寄に就任して幕府の要職を担います。元治元年(1864年)3月、藤田小四郎らによる天狗党の乱が発生すると、幕府は意尊侯に鎮圧軍の総督を命じました。意尊侯は、多額の戦費を賄うため、領民や資産家から資金を借用し、藩兵100余人と軍夫30人を従えて水戸に出兵しました。両者の交戦は8か月以上に渡りましたが、元治2年12月、越前国敦賀(現福井県敦賀市)にて天狗党は降伏。翌年2月、藤田小四郎、武田耕雲斎らを処刑するなど、厳しい処分を下しました。

この時の意尊侯の厳罰については、後世、賛否が分かれています。しかし、田沼家は代々、徳川将軍家に忠誠を尽くしてきた家柄であり、その家訓に従った結果であることは確かでしょう。

その後、慶応4年(1868年)5月、相良藩は上総国小久保藩(現千葉県富津市)に所替えとなり、意尊侯も家臣と一緒に移住しました。そして、翌明治2年(1869年)12月、51歳で亡くなりました。墓所は、東京都豊島区駒込の勝林寺にあります。

天狗党の乱戦争略図(個人蔵・市史料館寄託) 
    天狗党の乱戦争略図(市史料館寄託) 

田沼玄蕃頭家中名簿(個人蔵・市史料館寄託)
​    田沼玄蕃頭家中名簿(市史料館寄託)


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