田沼意次

牧之原市にゆかりのある「田沼意次」についてご紹介します。

 

田沼意次

田沼意次は享保4年(1719年)江戸で生まれ、幼名を竜助と言いました。

16歳で徳川家重の小姓となり、側衆に栄達して1万石を拝領し、宝暦8年(1758年)、遠州相良藩主となりました。

その後相良に築城を命ぜられ、10年後の明和5年(1768年)、大規模な相良城築城に取りかかりました。

町内は城下町らしく整備され、萩間川に橋が架けられ、東海道に通ずる田沼街道などが整備され、お城は安永8年(1779年)に完成しました。

そして、10代将軍徳川家治の側用人を経て老中に進み、いわゆる田沼時代を築きました。

意次は幕府財政の建て直しのため、貨幣の発鋳、農業一辺倒から重商政策への転換、水田の開発、エゾ地の開発など、大変な努力をしましたが、天明年間の飢饉、浅間山大爆発などの天災地変が相次ぎ、その上、政敵松平定信など保守派により、長男田沼意知が殿中で佐野政言に切り付けられ、それがもとで死去しました。

さらに、頼りにしていた将軍家治も病に倒れ、反田沼勢力の攻勢に老中の座を保つことができず、所領を没収され隠居を命ぜられました。

天明8年(1788年)7月、意次は失意のうちに70歳で死去しました。

何事も、家柄、前例、旧習などにより拘束されていた封建時代のこと、身分の低い家柄の出身であった意次は、優れた先見性、創造性と努力により老中職まで登り詰め、18世紀後半の日本の歴史に一時代を画した偉大な政治家でした。

田沼家年譜

年号 西暦 年齢 年譜 参考事項
      田沼氏の先祖は下野国安蘇郡田沼の住人で、田沼の姓はその地名に由来している。  
元仁1年 1224年   初代重綱が佐野家から分かれて一家を立てる。  
慶長20年 1615年   12代吉次は、鉄砲の特技を認められ、紀州家に仕える。  
正徳6年 1716年   15代意行・旗本となり、吉宗に供して江戸へ300俵。  
享保4年 1719年   7月27日・意行長男龍助(意次)誕生。  
享保17年 1732年 13歳 7月21日・龍助吉宗公に初のお目見え。 享保の大飢饉
享保19年 1734年 15歳 3月13日・龍助家重公の西丸詰小姓。300俵。 意行・奥向頭取、900石。12月18日・死去
享保20年 1735年 16歳 3月4日・龍助家督相続。 5日・元服、意次。  
元文2年 1737年 18歳 12月16日・意次主殿頭となり、従5位下。  
寛保1年 1741年 22歳 役料300俵・石高1,100石。 享保の改革(1716~1745)
延享2年 1745年 26歳 9月25日意次、家重公に供奉し本丸に移る。吉宗公隠居・大御所 11月2日・家重公9代将軍となる。
延享3年 1746年 27歳 7月22日・小姓頭取となり役手当100両。  
延享4年 1747年 28歳 9月15日・意次御用諸取次見習となる。 10月・小川町屋敷拝領
寛延1年 1748年 29歳 10月・小姓組番頭となり、2,000石に加増。  
寛延3年 1750年 31歳   3月・長子意知誕生
寛延4年 1751年 32歳 7月28日・御側御用取次となる。 6月20日・吉宗死去
宝暦5年 1755年 36歳 9月19日・5,000石に加増。  
宝暦8年 1758年 39歳 9月31日・10,000石に加増。11月18日・相良藩主。 9月28日・呉服橋御門内松平対馬守屋敷拝領
宝暦9年 1759年 40歳 2月5日相良領内巡視出発・17日着。  
宝暦10年 1760年 41歳 相良八幡宮へ御神輿を奉納する。 9月・家重公隠居・家治公将軍となる。2月江戸大火
宝暦12年 1762年 43歳 2月15日・15,000石に加増。  
明和1年 1764年 45歳   12月・人参座を神田紺屋町に設置
明和2年 1765年 46歳 4月11日・日光東照宮に石灯籠奉献。 9月5日・五匁銀新鋳発行
明和4年 1767年 48歳 7月1日・御側用人に昇格。20,000石に加増。相良城築城拝命。 従4位下。神田橋屋敷拝領
明和5年 1768年 49歳 4月11日・相良城鍬入式。 意知御小姓頭・200石。長崎に竜脳座設置。
明和6年 1769年 50歳 8月18日・老中格となる。25,000石に加増。  
明和9年 1772年 53歳 1月15日・老中となる。30,000石に加増。 2月・江戸目黒行人坂大火、屋敷全焼1万両拝借
安永2年 1773年 54歳   9月・南鐐2朱判(表位貨幣)発行。弟意誠死去
安永6年 1777年 58歳 4月21日・37,000石に加増。  
安永9年 1780年 61歳 4月・相良城落成意次お国入り(江戸7日発-相良13日着)(10日間滞在) 8月・大阪に鉄座・真鍮座を新設する
天明1年 1781年 62歳 7月和泉国日根郡にて47,000石に加増。  
天明2年 1782年 63歳   11月・印旛沼・手賀沼干拓、利根川掘割着工。意知・山城守
天明3年 1783年 64歳 7月・浅間山大噴火・死者2万人余。天明大飢饉5年連続・この年最悪。3月11日・意知若年寄拝命・蔵米5,000俵給  
天明4年 1784年 65歳   3月意知(36才)・殿中で佐野政言に刺さる。政言切腹
天明5年 1785年 66歳 1月・河内・三河で57,000石に加増。 6月・米の買い占めを禁止
天明6年 1786年 67歳 8月・家治死し意次老中を免ぜられる。 6月・表日本大洪水、利根川大氾濫
10月・神田屋敷・大阪蔵屋敷・領地20,000石没収。木挽町屋敷へ 9月・家齊11代将軍。寛政の改革(~1793)
天明7年 1787年 68歳 10月・意次蟄居・所領37,000石没収。孫意明家督相続・奥州下村 5月・難民蜂起し、暴動全国に広がる。
10,000石移封。 6月・松平定信老中首座となる。
11月・相良城没収。収城使岡部美濃守。  
天明8年 1788年 69歳 7月・意次死す。勝林寺に葬る。1月16日~2月5日相良城とり壊し。 9月・意明川普請役拝命・60,000両徴収される。
寛政1年 1789年     2月・前大老井伊直幸と松平康福死す。9月棄損令(定信)
寛政2年 1790年     5月・朱子学を正学とし他を異学として圧迫。10月・諸国代官に命じ郷蔵を造り穀物を貯蔵させる。11月・綿問屋その他の株仲間を圧迫。
寛政5年 1793年     7月・定信老中罷免。相良地方30,000石松平治濟の所領となる。
寛政8年 1796年   9月・意明死す。意壱相続。  
寛政12年 1800年   9月・意壱死す。意信相続。  
享和3年 1803年   9月・意信死す。意定相続。  
文化1年 1804年   7月・意定死す。意正相続。12月・駒込に転居。  
文政2年 1819年   8月・意正若年寄。5年・大名小路屋敷拝領転居。 相良領圧政のため一揆起こり、一橋屋敷襲われる。
文政6年 1823年   7月意正相良帰封。10,000石。 2月・小島蕉園、一橋家相良領代官となる。
文政8年 1825年   4月・意正側用人。  
天保7年 1836年   8月・意正死す。意留相続。  
天保11年 1840年   11月・意留隠居。意尊相続。  
嘉永5年 1852年     5月22日・西丸炎上。田沼玄藩頭の火事見舞いに西丸からの挨拶状。
文久1年 1861年   9月・意尊若年寄。  
文久3年 1863年   12月・相良藩水戸出兵費を領民より借用。 元治1年(1864)12月天狗党加賀藩内で降伏。
明治1年 1868年   9月意尊上総小久保藩10,000石に移封。  

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